においの話
嗅覚とノーベル賞
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毎年10月に受賞者が発表されるノーベル賞。
実は、人間の嗅覚にかかわる重要な発見も受賞していることをご存知でしょうか。私たちの五感の一つでありながら、長らく謎に包まれていた「におい」の仕組み、嗅覚の基本原理を解明した二人の研究者、アメリカのリチャード・アクセル博士とリンダ・バック博士に、2004年ノーベル生理学・医学賞が贈られました。彼らの発見は、私たちが何万種類ものにおいをどのようにして識別し、記憶や感情と結びつけているのかという難しい謎を解き明かしました。
遠い昔から、においは私たちの生存に不可欠な情報でした。食べ物の腐敗、危険な外敵の接近、そして異性とのコミュニケーション(フェロモン)など、においは生命を維持するための重要なシグナルです。しかし、そのセンサーが具体的にどのような仕組みになっているのかは、電気信号で光を捉える視覚や、振動を捉える聴覚に比べて、非常に複雑で解明が遅れていました。
問題は、化学物質であるにおいの分子が、どのようにして細胞に認識され、電気信号へと変換されるのか、という点にありました。鼻の奥にある「嗅上皮」という粘膜には、においを感じる神経細胞が並んでいます。科学者たちは、この神経細胞の表面に、においの分子を受け止めるための特別な「カギ穴」のようなタンパク質が存在すると推測していましたが、その実体は長年見つからずにいたのです。
アクセル博士とバック博士の最大の功績は、この謎のカギ穴である「嗅覚受容体(きゅうかくじゅようたい)」をコード(設計図)する遺伝子を、世界で初めて特定したことです。
彼らは、DNA解析技術を駆使し、マウスのゲノムの中から、特異的に嗅細胞でのみ働く、巨大な遺伝子ファミリーを発見しました。その遺伝子の数は、マウスで約1000種類、人間でも約400種類にも及びます。これは、生物が持つ全遺伝子のうち、実に3〜5%という驚異的な割合を占めます。一つの生命現象のために、これほど多くの遺伝子が関わっていることは、他に類を見ません。この巨大な遺伝子群の発見こそが、嗅覚研究のブレイクスルーとなりました。
2人の博士は、一つ一つの遺伝子が、それぞれ固有の形をしたカギ穴、すなわち嗅覚受容体を作り出していることを証明しました。
ここで一つの疑問が生じます。受容体の種類が数百~1000種類しかないのに、私たちは何万種類ものにおいを識別できるのはなぜでしょうか?
博士たちは、その答えが「コード化」、つまり「組み合わせ」にあることを発見しました。
人間には約400種類のにおいのカギ穴(嗅覚受容体)があり、それぞれのカギ穴を持つ嗅細胞は、たった一つの種類のにおいしか担当しません。これは「一細胞一受容体」の原則と呼ばれ、極めて厳格なルールです。
例えば、レモンのにおい分子というカギがあったとします。このカギは、一つのカギ穴ではなく、複数の異なるカギ穴(例 カギ穴A・B・C)に差し込むことができます。ただし、カギ穴Aには強く、カギ穴Bには弱く、カギ穴Cにはかすかに反応するなど、その反応の強さはそれぞれ異なります。
そして脳は、このときの反応の「受容体の組み合わせパターン」を瞬時に読み取ります。このパターンを「レモンのにおい」という情報に変換し、認識・記憶しているのです。
この仕組みのおかげで、たった400個の異なるセンサーのオン・オフと強弱の組み合わせだけで、数万種類ものにおいの違いを識別できているのです。
アクセル博士とバック博士はさらに、この受容体からの信号が、脳のどこに伝達されるかも解明しました。すべての嗅細胞は、脳の嗅球という部分で、特定のパターンで信号を中継します。そして、この信号は、感情や記憶を司る大脳辺縁系へ直接送られます。
視覚や聴覚の信号が、一度「理性」を司る大脳皮質で処理されるのに対し、嗅覚の信号はダイレクトに感情と記憶の中枢へ届きます。これが、「プルースト効果」(特定のにおいが、鮮明な過去の記憶を呼び起こす現象)が起こる、科学的な根拠です。
嗅覚受容体の発見は単に、においを嗅ぐ仕組みを解き明かしただけでなく、私たちがにおいから感じる情動と記憶の仕組みを知る大きなカギとなりました。この基礎的な理解が進んだことで、食品・香料産業での「心を動かす香り」の開発や、動物行動学におけるコミュニケーションの解明、さらには神経科学における記憶形成の研究など、多岐にわたる分野で応用され続けています。